


毎年、10月、11月頃になると身が引き締まる感がある。
この時期は各寺院での報恩講、新井支院等の報恩講、又、本山京都東本願寺での御正忌報恩講がある。とにかく何があってもお参りしたいという緊張感からではないか。
それは日頃忙しさに流されている自分を見詰め直す場であるからか?
お参りに行きたい。唯、そこへ足を運んで、お参りしたいという気持ちなんです。
あんたは偉いと茶化される時もありますが、何を言われても、
私はそこへ行って念仏申したい。
中村久子という名前を聞いた事はないだろうか。
明治30年に岐阜県高山に生まれ、本名は「ひさ」と言う。
2歳の頃病になり、両腕はヒジから先、両足はヒザから先を4歳の頃までに切断し、昭和43年脳溢血で倒れ、72歳を一期に往生されました。
彼女の人生は二重三重の苦しみの人生であった。
自分自身の心の葛藤は勿論であるが、世間からの差別、本来女性であれば一番輝く時期の見せ物小屋での生活等書き尽くせない程ある。
しかし一番の苦しみは「生きる」事である。
私が日常する事全てが大問題なのである。起き上がる事、トイレに行き済ます事、家事をする事、お風呂に入る事、寝る事等々、生活全てが問題だったのである。
しかし、彼女の生活は逆で、手がないのに着物を縫い上げ、口に筆をくわえ達筆な字を書き、不自由な身体で全国各地を精力的に飛び回り、子育てもした。
そんな彼女の心には、歎異抄を中心にした親鸞聖人の教えがあり、唯々生かされている事が有難いという事であった。彼女が初めて義足を付けた時の感動を「手足なき身にしあれども生かされる いまのいのちはたふとかりけり」と詠んでいる。
私などは五体満足でありながら自分の身を生かそうともせず、本来住職であれば念仏を申す為の口は、いつも不平不満ばかりである。
久子がいれば「そんな口なら縫い合わせてしまえ」と言われそうである。
しかし、こんな私でも阿弥陀様は救って下さる。この私のままで念仏すれば救ってくださるのである。
この様な私であるから毎朝手を合わせ、本山にも新井別院にも参らせていただくのである。
この中村久子さんの生き様を思うと、今の自分を問い直さずにはおれない気持ちになるのは私だけであろうか。
もしかしたら、そういう事が「無碍の一道」という事なのであろうか。
これからも念仏申さんと思いたつ心を追い求めて行きたい。